研究・プロジェクト紹介

アジアの空気が地球をめぐる
小池 真 (大気海洋科学グループ)

アジアの空気はどこへいく
南極オゾンホールの発見や温室効果ガスの増加などを契機として、地球の大気環境は人類共通の資産であり、ともに協力して守っていくという意識が世界的に共有されるようになってきています。このオゾン破壊のもととなるフロンガスや、二酸化炭素など多くの温室効果ガスは、一般に長寿命(大気から除去されにくい)なので、世界のどの場所で放出されたかに関わらず、地球規模での大気環境破壊につながります。これに対し、比較的短寿命ですが、大気環境に強い影響を与える成分があります。例えばオキシダント(光化学スモッグの原因となるオゾンなど)や、オキシダントを生成する材料となる物質(窒素酸化物など)、エアロゾル(大気中に漂う微粒子)、あるいは人間や動植物に有害な物質などです。これらの成分は大気中での化学反応や、雲・雨に溶け込んで地上に落下するなどして比較的簡単に大気から除去されることから、その影響は一般に局地的(例えば関東平野くらい)あるいは地域的(東アジアくらい)なものと考えられていました。しかし近年、これらの成分が太平洋を渡り、他の大陸の大気環境にも影響を与えていることが分かってきました。対流圏では一般に高度が高いほど西風が強いため、アジア大陸から汚染大気などの人為起源物質が上層まで運ばれると、ジェット気流に代表されるこの強い西風にのって数日のうちにアメリカ大陸まで達してしまいます。またアメリカ大陸の影響はヨーロッパに影響を与え、東アジア諸国はヨーロッパからの影響を受けていることが分かってきました。

ロサンジェルス・タイムスで紹介された太平洋を渡る「ダスト(黄砂)イベント」
ロサンジェルス・タイムスで紹介された太平洋を渡る「ダスト(黄砂)イベント」。人工衛星観測からはっきりと捉えられました。黄砂は目に見えますが、目に見えない様々な大気物質が太平洋を渡っていると考えられます。

2002年4月26日付けのロサンジェルス・タイム新聞は、「アジアからの風によって運ばれる汚染大気:アメリカへの危険物質の輸出」として次のような記事を載せています。「カリフォルニア州では州政府の大気質の環境基準を達成するように環境対策をしているが、これらの努力にも関わらず、アジアからの汚染大気の輸出が環境を悪化させている。...例えば春先には人工衛星からもはっきりと確認できるダスト(黄砂)がアジアから飛来するが、我々が呼吸で吸い込む粒子は単なる砂粒ではなく、その表面には危険物質を含む数百種類のアジア起源の物質が付着している。...我々は普通に考えているよりも狭い世界に生きている。皆が同じ空気を呼吸しているのだ。」

出口と入り口を見張る
このような大陸間での大気物質の交換を調べるために、ITCTというプロジェクトが実施されています。ITCTというのはIntercontinental Transport and Chemical Transformation(大陸間の大気物質の輸送と化学的変容解明プロジェクト)の略称で、アメリカの大気海洋省(NOAA)などが中心になって行っているプロジェクトです。2002年の4-5月には、大規模な航空機観測が実施されました。この観測では、大気の組成を分析する測定器を満載した航空機(空飛ぶ実験室と呼ばれます)をアメリカの西海岸で何度も飛ばし、アメリカに入ってくる大気の性質を詳しく調べました。

ITCTで活躍しているNOAA WP-3D 大気観測用航空機
ITCTで活躍しているNOAA WP-3D 大気観測用航空機。ITCTプロジェクトでは、この他にも複数の観測機が投入されています。

この観測キャンペーンに呼応して、日本でも同時期に、日本周辺での航空機観測を実施しました。この観測は私たちの研究グループと東京大学先端科学技術研究センターの近藤教授のグループが中心となって、国立環境研究所や宇宙開発事業団、アメリカ、ニュージーランドの研究グループ等と共に実施しました。日本側ではこの観測をPEACE(Pacific Exploration of Asian Continental Emission、アジア大陸からの大気物質放出に関する太平洋域探査プロジェクト)という名前で呼んでいます。PEACEではアメリカのITCTとは対照的に、アジアから出て行く大気の性質を詳しく調べました。すなわち、PEACEでアジア大陸から出て行く大気を、ITCTではアメリカに入ってくる大気を同時に調べ、さらにコンピュータ(3次元の化学輸送モデル)を使って途中の大気の動きや化学反応を計算することにより、全体像を把握するという大掛かりな観測計画です。

NOAA WP-3Dによる観測飛行経路の例
NOAA WP-3Dによる観測飛行経路の例。

アメリカまで短時間で飛んでいくような大気の流れは、自由対流圏と呼ばれる高度2000m以上の高さで起こります。したがって、地上にへばりついていてはこのような空気の性質を調べることはできず、必然的に航空機を使った観測となるわけです。しかし、航空機観測で出口と入り口を見張るというのは、実際には容易ではありません。アジアからの大気の流出は連続的に起きているのではなく、アジアを通過する高低気圧の動きに伴って、不連続なイベントにおいておきています。前に示した黄砂イベントも、このようなアジアからまとまった高濃度空気として太平洋上を輸送されています。このような不連続イベントを航空機で捉まえるのは、文字通り「雲をつかむ」ような困難さがあります。

PEACE航空機観測で使用されたガルフストリームII(GII)観測機 PEACE航空機観測で使用されたガルフストリームII(GII)観測機。屋根にポコポコ突き出しているのは、外気を飛行機の中の測定器に取り込むためのプローブ。また気体の下側についている黒い大きな出っ張りの中にも測定器が搭載されています。ここには、外気を取り込んですぐに分析しないとなくなってしまうような成分を測定するための装置が搭載されています。

GII観測機の機内の様子 GII観測機の機内の様子。観測機には4人の研究者が乗ることができます。コンピュータの画面には、時々刻々と、リアルタイムで自分の測定器の様子や、他の研究者の測定値などが表示されていきます。これらの情報をもとに、フライト経路や高度を変更することもあります。パイロットは二人で、研究者どうしやパイロットとは、ヘッドホンとマイクを使って 交信します。

このため、PEACEとITCT観測では共同で、化学天気予報というシステムを立ち上げました。これは気象の天気予報と同じように、明日(あるいは5日くらいまで先に)、アジア起源の物質がどの場所、どの高度に輸送されていくかを予報するというものです。アメリカやヨーロッパの気象局が毎日出している予報気象場を使い、また地上からの様々な物質の放出源データを使って、それらの物質がどこへ輸送されるかを計算するのです。そしてその予報をもとに、日本とアメリカのそれぞれから観測機を飛ばしました。この結果、日米双方とも多くのイベントをうまくつかまえることができました。日本はまだ発生源の近くなので、モデル計算の精度もそこそこあると考えられますが、太平洋を数日かけて渡った先のアメリカでも、モデル計算どおりに“アジア発”の空気を捕まえることに成功したのには、われわれ自身も驚きました。しかし、同時にまた、モデル計算がまったく予想していないような高濃度の人為起源物質を観測したり、またその逆にモデル計算ではイベントを予測したにも関わらず、観測機で飛んでいっても、何もないこともありました。さらに厳密に言えば、諸成分の濃度もモデル計算と観測とが何倍も異なるケースがありました。これらは、モデル計算の中の何かの不備を端的に示しており、そこから多くのことが学べると期待されます。

PEACE-Bの観測経路
PEACE-Bの観測経路。全部で12回のフライトを行いました。これらの経路にそって、高度150 m(もちろん海上の上しか飛べません)から 13,500 mまでの高度を飛行しました。時間的にゆっくりとしか測定できない測定器である地点での大気成分の高度分布をとるために、スパイラル (旋回)飛行もします。この時は20分くらいの間、飛行機は傾いたままです。

広がるサイエンス
ITCTとPEACEの観測結果については現在、急ピッチで解析が進んでいます。共同でワークショップを開催し、徹底的に議論を繰り返しながら理解を深め、それぞれの内容を研ぎ澄ませて、最終的に論文として共同でまとめていく作業です。アメリカの研究者は層が厚く、元気の良い若い研究者もどしどし解析結果を発表してきます。観測結果は基本的にITCTとPEACEの研究者全体で自由に使うことが可能なため、研究は良くも悪くも競争となります。このため私達もアメリカのスピードに負けないように、研究室の学生達にも大いにがんばってもらって、全力で解析を進めています。

PEACE-A航空機観測から得られた下層での一酸化炭素の濃度 PEACE-A航空機観測から得られた下層での一酸化炭素の濃度。一酸化炭素濃度は、人為起源の影響を示す良い指標です。アジア大陸から日本に向けて、高濃度の汚染大気が押し寄せてきているのが分かります。これらの外国からの汚染大気の流入(越境汚染)は、今後世界でより一層、深刻な問題となると考えられます。



PEACE-B航空機観測から得られた、下層から自由対流圏への空気の上昇場所と、そこで上昇した空気の中での一酸化炭素濃度 PEACE-B航空機観測から得られた、下層から自由対流圏への空気の上昇場所と、そこで上昇した空気の中での一酸化炭素濃度。アジアで蛇行した亜熱帯ジェットに沿った場所で、高低気圧に伴う空気の流れや、積雲対流活動によって、地上の物質が上空に輸送されています。特に中国の華中地域から高濃度の汚染大気が上がってきていることが分かります。

今回のITCT-PEACEの研究等を通して思うのは、このような大気環境研究の分野は既存の学問の枠組みを越えて、内容がどんどん広がっているということです。例えばアジア起源の大気がどのように自由対流圏に入り込み輸送されていくかを研究する上では、気象を専門とする研究者との共同研究が不可欠です。 また地球の温暖化について研究しているグループからは、地球の放射バランスにおいて鍵となるエアロゾルのデータをより密に集めてくれるような要請がきています。さらにアジアからのエアロゾルが太平洋に落下することによって、太平洋の海の生態系へも多大な影響を与えていることも分かってきました。自分たちの専門の研究を深めていくことによって、同時に学問の裾野が広がっているのを実感しています。

* 参考
ITCTホームページ
PEACEホームページ
小池研究室ホームページ
近藤研究室ホームページ